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本名 橋本洋(はしもとひろし)
誕生 1955年
出生地 福岡県北九州市小倉
いろいろ ふとめ座(?)、A型 太め
使用楽器 V.Bach B♭ trumpet180ML.37G
C trumpet25H 229G
V.Bach アルチザン
J.モンケ C trumpet
マウスピース 現在のところ Bach11/2C 他
仕事 日本フィルハーモニー交響楽団
トランペット奏者
武蔵野音楽大学トランペット科
非常勤講師

 

 
中学時代

中学在学中に同級生より勧められたブラスバンドに入部。 本人の「フルートを吹きたい」という希望は無視され、男子と言う理由だけでなんとチューバをやらされてしまった。しかし、これが結構気に入ってしまったのだが、体育祭の行進で堪え難い重さを感じ、それだけが悩みの種であった。 中3になったある日 、OBに連れられて小倉南高の吹奏学部へ遊びに行った時のこと、ぼくが初めて見る楽器があった。 それは、ヤマハの4本ピストンのユーフォニアムで、それにすっかり魅せられたのだ。また南高には、ぼくの運命を変えるふたりの人との出合いが待っていた。 ブラスバンド入部への真相上には同級生に勧められたと書いたのだが実は、 何年か前に真相が明らかになっていた。日フィルの小倉公演の時に僕の中2、3の担任だった大佐先生(おおさせんせいと読む)が来てくれた。終演後、先生と昔話に花を咲かせ楽しい一時を過ごしたそのときの話で、なんと!僕のブラスバンド入は先生の指導というか、とにかくはめられたのだった。一年生のときに入っていた文系クラブの出席率が悪くて、事実上くびになってぶらぶらしていた僕をなんとかしようとしたらしいのだ。また、ブラスバンドは成績のよい連中が集まっていたのでそっちのほうはいまいちだった僕にはちょうどよいと思われたそうだ。しかし、その後そんなにこのクラブにはまるとは先生も予想しなかったということだ。人の人生は、こういうことで決まるんだなぁと思わないではいられない。

 

高校時代

その後、南高に進んだぼくは、その楽器をまんまと自分のものにした。 当時、南校にはチューバはなくスーザフォンしかなくてかっこわるいし、重いし、とにかくユーフォニアムの4番目のピストンが気に入った。1年上の先輩に一人め、トランペットの久保義一氏(元コウセイウィンド奏者)と出会い、よく一緒に練習したものだ。ユーフォニアムを心から愛していたぼくは、将来は学校の先生にでもなってブラスの指導をしてみたいと思いはじめた。1年生の夏休みになって卒業した先輩達がぞくぞくと帰ってきたが、その中に白石実氏(元東京都交響楽団首席奏者)がいた。白石さんは東京の話、とくに武蔵野音大のことをよく話してくれた。そこでぼくは、音大に進んで音楽の先生になろうと勝手に決めて、小林 高彦先生の所へユーフォニアムを持っておしかけたが、先生は、「あんたのユーフォはすてても惜しくない。トランペットなら」とあっさりおっしゃりこの際なんでもいいやと思った私は「じゃお願いします」と簡単にユーフォニアムを捨てた。その足で久保さんの家へ直行してこういう訳でトランペットになりましたと云うと「じゃ俺も音大に行く!」・・・?それから二人で小林先生の所に通い始めた。博多でレッスンを受けていた八馬俊也氏(元九州交響楽団)と合流し三人になった。それまでいた吹奏楽部は、二人の我が儘でくびになった。無事に久保さんたちが合格し、一人でレッスンを受けていたある日、佐賀から佛坂幸男氏(元NHK交響楽団)が来て、その後、ともに武蔵野音大へ進むことができた。

 

大学時代

入学した武蔵野音大では、戸部豊先生に師事することができた。同級生は、同じ学部に 佛坂君と関山幸弘氏(元NHK交響楽団)とぼくの3人で、白石さんが4年でその同級に長倉穣二氏(元新星日本響奏者)、久保さんが1学年上といったところだ。あと武蔵野ではないけれど、芸大の松田さん(元札幌交響楽団)がよく出入りしていた。在学中のエピソードはたくさんあってすぐには書ききれないので徐々にのせてゆくことにする。 大学時代の思い出 4年生の時、武蔵野音大管弦楽団が西ドイツへ演奏旅行にいった。当時は、まだ羽田空港からの出発で、アンカレッジ経由でかなりの時間がかかったように記憶している。ほとんどがホームステイで、その町に バスで到着後、迎えにきている各家庭のひとに引き取られていくのだが、みんな無論ドイツ語なんか話せないし、こっちが片言の英語を話してもでもむこうがまったくだめというケースもあった。次の日のリハーサルの時には、もう、どういう家庭で、どんな家族構成で、何を食っただの、そんな話でもちきりだった。僕なんか、それまで外人とまともにしゃべったのは武蔵野の指揮者のキューネル先生くらい、しかも日本語で。そんななかで、南ドイツの小さな町でホームステイしたときに事。そのときは、関山君と一緒だった。ごついおっさんが、よく太った12か13才位の子供と僕らを迎えに来ていた。その人は地元の高校の先生と言っていたようだがよく覚えていない。そこのうちには男の子が3人いて、ついてきてたのは3番目、ウォルフガングと言う名前。ちょうど不在だったが、長男はハネス、二男はベルンハルトといった。そう、御存知のかたも多いと思うが、なんとロイビン3兄弟の実家だった。現在、長男のハネスと三男のウォルフガングはバイエルン放送響、二男のベルンハルトはハンブルグの北ドイツ放送響にそれぞれ在籍している。 ロイビン兄弟つづき その後何年かたったある時、銀座にあるヤマハのアトリエからロイビン3兄弟来日の連絡があった。それによると、ヘルムート・リリンクという人のバッハアカデミー合奏団(だったか?) で来日するとのこと、また、アトリエに彼らを招いて歓迎会を開くので出席してほしいということだった。久しぶりだったのでとても楽しみにして出かけた。彼らが入ってきたときには正直いって僕らがわかるかどうかちょっと不安だったのだが、次男のベルンハルトが「ハシモットサ〜ン?」と指さした時は嬉しかった(関山氏は、仕事で来られなかった)。次の日、僕と佛坂氏とで彼らの買い物の付き合いをした。彼らを新宿の伊勢丹に連れてゆき、真珠を売っているところや、着物売場やら、いろいろつきあって東京文化会館まで送っていった。彼らはタフだった。その後、北ドイツ放送響で来日したハネス・ロイビンには何回か会った。

 

日本フィルへ

大学も上級になるにつれていろんな仕事が来るようになる。オーケストラのエキストラもぼちぼちとあった。そのなかで日本フィルにオーディションがあった。まだ4年生だったけれど研究員の制度もあるのでとりあえず受けてみることにした。2度受けて2度目に受かった。あとは卒業までルンルンだ。何せ就職の心配が9月で終わったのだから。「これで貧乏ともおわかれだあ」とその時正直思ったのだがそれが一生憑いてまわることになるとは・・・・・・。僕が入団してしばらくして佛坂くんが入った。日フィル入団前後のことは話も長くなるなるので、割愛いたします。