秋風五丈原


三国時代からおよそ1800年がたっても、ここは小さな集落です。娯楽施設もないここ五丈原では、村人達は月に一度集まってドンチャン騒ぎをするのが唯一の楽しみだとか。そんな日に出くわしてしまいました。
静かな(と、勝手に思いこんでいた)はずの五丈原は、人、人、人・・・。諸葛亮がどんな人だったかをこの人達は知っているのかどうかは判らないけど、武候祠はまるで「村の鎮守」のお祭り日といったところです。
秋ではありませんが・・・。
ここは三国志の物語ではあまりにも有名な場所、五丈原。蜀の丞相諸葛亮(しょかつ りょう)が、魏の司馬懿(しばい)と対陣している時に、志半ばにして没した場所です。


諸葛亮が乗っていた車椅子を再現したもの
入口を入ると出迎えてくれるのが、馬岱(ばたい、写真左)と魏延(ぎえん、写真右)の像。諸葛亮が陣没した直後に謀反を起こした魏延を、成都の城の前で討ったのが馬岱です。馬超の従兄弟で、劉備(りゅうび)のもとに来て、死ぬまで蜀に尽くした、馬岱は私の好きな武将のひとりです。
こう見ると、魏延より馬岱のほうが、かっこいいですよね。
諸葛廟のなかには、4人の武将が脇を固めています。
まず、左の写真の左側、王平(おうへい)。諸葛亮の第一次北伐に際し、馬謖とともに先発軍の指揮を命じられ、馬謖の本隊は壊滅しましたが、一糸乱れぬ後退戦を演じて敵の追撃を許しませんでした。王平は文字を読めなかったそうですが、史書を部下に読ませて勉強をかかさなかったといわれています。
その隣は、姜維(きょうい)。天水出身で魏の武将でしたが、諸葛亮に投じて信任を得、征西将軍に昇りました。諸葛亮は彼を自分の後継者として育て、諸葛亮の死後、「死せる孔明生ける仲達を走らす」という見事な撤退劇をやってのけました。三国志を書いた本は沢山ありますが、姜維のことは「白面郎」とか「眉目秀麗」とか、きれいな顔立ちであるような形容をしています。ここの像も、よく見るとなかなか美男子だと思いませんか?
右の写真の右側は、廖化(りょう か)。関羽の部下でしたが、関羽敗死後、一時期呉にとらわれていました。何とか抜け出た後蜀に戻り、丞相参軍などを歴任し、蜀滅亡まで蜀軍で頑張っていました。
その隣は、張苞(ちょうほう)。劉備、関羽と義兄弟の、張飛の長男。父親によく似て勇猛果敢であったそうですが、若くして死んでしまったのが残念です。
おお、これが・・・
武候祠の主、諸葛亮さま。三顧の礼によって蜀に招かれ、漢帝国復活に生涯を捧げた人! 五丈原では過労による吐血(結核だったのでは?)が続き、ついに陣中で病死しましたが、その割にはこの像ちょっと中年太りのような気がします・・・。
地元の皆さんは、この「村の鎮守」の神様に向かってお賽銭を投げてお参りするので、アクリル板を張って防護してありました。

廟の前には隕石の記念碑がありました。裏側に回ると、落ちてきたと言われている隕石が、石碑に埋め込まれていました。司馬懿は五丈原の陣中で流れ星が落ちるのを見て、諸葛亮の死を感じたとか。この隕石がそれなんでしょうか?

隕石がはめ込まれた石碑

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