秦の始皇帝兵馬俑坑博物館
秦の始皇帝が自分の陵墓を守らせるために建設した、壮大な地下帝国。地中に埋もれ、建設関係者も存在を極秘にするために殺されたそうです。始皇帝没後そう時間もたっていない頃に生きていた、史記の作者、司馬遷ですらその存在は半信半疑だったとか。
1974年、井戸を掘っていた農家のおじさんによって、偶然発見されて以来、現在までに発掘された兵馬俑はおよそ6000体。巨大な建物で覆い、現在も発掘、修復が毎日続けられていますが、完全修復までには相当時間がかかるようです。
発掘当初は兵馬俑にはきれいな彩色が施されていたそうですが、空気や光に触れて退色してしまい、現在色の付いているものは退色しないように保管されているそうです。ドイツの科学者グループが退色防止の薬品を研究中だそうですが、これが完成すれば兵馬俑も色つきでみることができます。できれば、私の生きているうちに完成してほしいです。
下の写真の一団は、作戦会議などに参加できる高位の武将たちです。兵馬俑の首がないのは、発見されたときに顔の色がはっきりと残っていたために、退色しないように保管しているためです。
整然と並んでいる兵馬俑にも陣形があるようで、歩兵のしたっぱさん(戦争が始まるとすぐ殺されちゃう人たち)のグループ(写真左の前方)、武器を持っているグループや馬車に乗っているグループ(写真下)など、規則正しく並んでいます。

右の写真は、兵馬俑に守られている、秦の始皇帝陵です。この陵墓を作るために、当時は70万人の人間を動員したそうです。地下深く掘られた墓には、水銀を使って川や海を作り、盗掘防止のしかけ矢もあったそうです。
それでも完成してわずか10年で、項羽軍によって暴かれてしまいました。

日本に帰りたかった阿倍仲麻呂
唐の長安城の興慶宮址にに作られた公園には、阿倍仲麻呂の記念碑があります。遣唐使とともにこの地にやってきた阿倍仲麻呂は、国子監太学に学び、科挙の試験にうかって役人になりました。玄宗皇帝から晁衡という中国名まで賜りましたが、望郷の念は募るばかりで、帰国の申し出をしました。しかし、帰国の船は難破し、今のベトナムに漂着し、その後苦労の末に長安に戻りましたが、ついに日本に帰ることはできませんでした。写真の石碑には、阿倍仲麻呂の「望郷詩」と、仲麻呂と親しかった李白が、遭難した(と思いこんだ)仲麻呂を悼んで詠んだ「哭晁衡詩」が刻まれています。

西安のシンボルタワー、大雁塔(写真右)。この大きな塔をもつ大慈恩寺は、唐の高宗が母の供養に旧寺を修復再建したもので、西遊記で有名な三蔵法師がインドから持ち帰った教典の翻訳に励んだ所でもあります。
最近判ったそうですが、どうもピサの斜塔のように、少し傾き始めたそうです。倒壊しない事を祈るばかりです。
大雁塔と比べると小振りでかわいらしい、小雁塔(写真左)。唐の中宗が707年に建てたと言われています。写真では、大雁塔より大きく見えますが、大雁塔は高さ64m、小雁塔は高さ45mです。

西安の町にさようなら
600年の歴史を持つ、西安の城壁。周囲は12キロあり、唐の長安城の皇城を基礎に造られたそうです。城壁の中は、東西に約3.5キロ、南北に約3キロありますが、唐の長安城はこの9倍の敷地面積があったそうです。
西安の町とはさよならして、次は咸陽です。・・・といっても、日本で言えば東京〜横浜の距離くらいです。