西安に到着
成田からおよそ5時間で、西安咸陽国際空港に到着。着いたばかりだというのに、いきなり観光です。
ここは前漢4代目の皇帝、孝景帝劉啓(りゅうけい)の陵墓「陽陵」と兵馬俑博物館です
(左写真:陽陵考古陳列館入口)。(※孝景帝は4代目というのが一般的ですが、呂后の乱の時ににわかにたった2代目恵帝のニセ皇太子と、どさくさにまぎれてその後にたった常山王義を入れれば、6代目とも言われています。)孝景帝といえば、「おお、あなたは広国!」で有名(かどうかはわからない)な、竇(とう)皇后の産んだ息子です。彼の統治時代は、質素ながら、落ち着いた良い時代だったそうです。そして、孝景帝の後には、あまりにも有名な孝武帝劉徹(りゅうてつ)とつづくのです。

活気溢れる西安の中心地
城郭で囲まれた西安の中心地は、日曜日とあって大変な賑わいでした。市内の観光の第一歩は、鼓楼。1380年明代に創建された(現在のものは清代)そうです。大きな太鼓の前の看板にはお金を払うとたたかせてもらえるとありましたが、とりあえず記念撮影を。
鼓楼のすぐそばには鐘楼
(写真右)というのもあり、ここには大きな鐘が下がっているそうです。大きなものを作るのが好きなようです。
鼓楼と鐘楼の間には公園があり、家族連れの皆さんが、日曜日の午後を楽しんでいました。


城郭内のシンボル「鐘楼」

西安の名物に夜市があります。屋台料理やシシカバブーがあちこちで並んでいましたが、正体不明の食材もたくさん売られていました。

秦〜楚漢戦争
のどかな農村の一画にぽつんとある石碑(写真左)には、「抗儒遺址」と刻まれています。秦の始皇帝が、口ばっかりで民を惑わし役に立たない(と思っていたのか、愚民政策なのか)、儒学者およそ460人を生き埋めにした場所です。埋められた人たちはその後埋葬され、今では小麦畑のまんなかにこの石碑があるだけです。

剣は踊る「鴻門」の会
関中一番乗りを果たしていい気になっていた劉邦(りゅうほう)に腹を立てた項羽(こうう)が、劉邦を暗殺しようと呼びつけた場所の「鴻門」。
項羽の叔父である項伯(こうはく)と劉邦の知恵袋である張良(ちょうりょう)の働きで暗殺計画は和平交渉になりましたが、それでも劉邦を暗殺しようと企む范増(はんぞう)は、項荘(こうそう)に剣の舞を踊らせました。
では、当時のキャストを下の写真で紹介します。
項羽陣営
(左から)?誰だっけこの人。項庄とあるけど剣の舞を踊って劉邦を暗殺するように范増から指示されたのは、史記では項荘となっていますが、剣を持っているから・・・?。項羽の参謀、范増。楚軍の大将で、後に虞美人と一緒に「四面楚歌」を嘆く項羽。項羽の叔父で張良に恩義がある、項伯。項伯は、項荘の様子をみて劉邦危うしと思い、自分も一緒に踊るといって、項荘の剣の受け手にまわった。項羽側の知将のひとりだが、後に劉邦陣営に加わる、陳平(ちんぺい)。劉邦陣に移ってから、項羽と范増の「離間の策」を提案する。
劉邦陣営
(左から)劉邦の御者、夏候嬰(かこう えん)。項羽から必死に逃げる劉邦が自分の子供(後の恵帝)が邪魔だといって馬車から突き落とすと、その度に馬車を止めて拾い上げたという。韓宰相家の末裔、張良。この人がいなかったら、漢帝国はできなかったでしょうね。項羽にいつも負けて逃げ回っていた、漢帝国始祖、高祖劉邦。劉邦の幼なじみで、もと肉屋、豪傑武将(はん)かい(口へんに會・・・文字がない)。讒言によって劉邦を危険なめにあわせた、曹無傷(そう むしょう)。あとであっさり殺されちゃう。
鴻門の会が行われたであろうという、テントの再現。

テントの中では剣の舞が・・・。項荘(いち番左の人形)の差し出す剣をかわす項伯。その正面には劉邦が。

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