女傑も眠る陵墓「乾陵」
陵の周りにあった城壁も、今ではその一部しか残っていません(写真上)。城門の手前には、参道の左右におよそ30体ずつ、首のない異民族の石像が並んでいます。
参道の入口
(写真右)である玄武門には物見の塔があり、かつては侵入者から陵墓を守る兵隊が常駐していたと思われます。
唐第3代の皇帝高宗には、中国史上唯一の女性皇帝で、女傑として名高い則天武后(そくてんぶこう)という奥さんがいました。この写真は、その高宗と則天武后が合葬されている乾陵です。
乾陵は、高宗の死後則天武后が造営した、唐代の代表的な陵です。標高1047.9mの梁山を利用し、長い参道には高さ5mもの有翼の天馬、ダチョウ、馬、戴冠着袍に剣を帯びた将軍の石像が並んでいます。
高宗の生前の事跡を記した述聖紀碑(写真左)無字碑(写真右)は、則天武后が生前の事跡を残さず、無刻のまま評価を後世に委ねたものだそうです。でもそれは、落書きの格好の餌食となり、現在では後世の刻文で埋め尽くされています。有名な落書きもあるそうですが、私に読めませんでした。
悲劇の皇子と皇女
高宗と則天武后の孫である懿徳(いとく)太子は、701年、19才の時に則天武后の寵臣の排斥運動に失敗して、実妹の永泰(えいたい)公主とともに則天武后に殺害されました。左の写真は、その懿徳太子の石棺を納めた地下墓室のある博物館入口です。
右の写真は、実兄の懿徳太子とともに、17才で則天武后に殺害された永泰公主の墓です。墓室に続く地下参道には色鮮やかな壁画があり(といってもレプリカで、本物は陝西省歴史博物館にあるそうです)、高松塚古墳に描かれていたものとそっくりです。
懿徳太子の副葬品には馬や武将のはにわが多かったのに比べると、こちらは人形の類が多かったのが印象的でした。
唐の英雄李世民が眠る昭陵
唐第2代皇帝李世民(りせいみん)の陵墓は、関中平野北側の山麓沿いにあります。陵墓は一般公開されていませんが、唐建国の立て役者の一人である、李勣(りせき)の墓が博物館として公開されていました。
李勣の本名は徐世勣といい、最初は随末の群雄のひとりであった李密に仕えていました。後に唐に降って唐の高祖に気に入られ、李姓を賜り李世勣となのっていましたが、李世民のいみなである「世」の字をはばかり、李勣と名乗るようになりました。
博物館には昭陵近隣の墓前から集められたり、新たに発見されたりした墓碑がたくさん展示されてあります。

旅を終えて・・・

盛り沢山の旅行でしたが、事前にもっと勉強しておくべきでした。唐の時代に関しては全く不勉強で、ちょっともったいないことをしたと反省しています。それから、今回のコースに陝西省歴史博物館が入っていなかったことで、もう一度行かないと満足できない事を実感しました。

中国の歴史や文化に興味のある方は、次回、ぜひ一緒に訪れてみませんか?



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